井戸

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私が子供の頃、毎年夏休みになると家族で山奥の村に遊びに行った。村には祖父母の家があり、自然が豊かで、特にその村の湧き水は澄んでいてとても美味しかった。村の中央にある古い石の井戸から湧き出るその水は、村の人々の生活の一部だった。

ある年の夏、私は祖母と一緒にその井戸の近くを歩いていた。祖母は井戸の周りに咲く花を摘んでいたが、私はその井戸の中が気になって、じっと覗き込んでいた。井戸の中は暗く、底が見えない。冷たい水の匂いが漂っていた。

「昔から、この井戸はずっと湧き水を出し続けているんだよ」と祖母が言った。「でも、この井戸には近づかない方がいい。何か良くないことが起こるかもしれないからね」

私はその言葉に興味をそそられたが、祖母が真剣な顔をしていたので、それ以上何も聞けなかった。その日はそれで終わったが、心の中には井戸のことがずっと引っかかっていた。

数日後、私は一人で井戸に向かうことにした。大人たちには内緒で、こっそりと井戸の近くに行った。井戸の周りは静かで、風の音だけが聞こえていた。私はもう一度井戸の中を覗き込んだ。暗闇の中で、水面がかすかに揺れているのが見えた。

「何かがあるはずだ」と思い、井戸の縁に腰をかけて覗き込んだ。その時、足を滑らせて、私は井戸の中に落ちてしまった。冷たい水が全身を包み、一瞬息ができなくなった。必死に水面に顔を出し、呼吸を整えた。

井戸の中は暗く、冷たい水が体を冷やしていた。手足をバタつかせて、なんとか壁にしがみついたが、登ることはできなかった。井戸の中から見上げると、遠くに小さな空が見えるだけだった。

「どうしよう…」私は途方に暮れて、周囲を見渡した。すると、井戸の壁に何かが見えた。小さな穴が開いていて、そこからわずかな光が漏れていた。私はその穴に近づき、手を伸ばしてみた。

穴の中は暗くてよく見えなかったが、何かが置かれているのが感じられた。手を突っ込んでみると、古い布のようなものに触れた。その布を引っ張り出すと、小さな人形が出てきた。それは古びた木でできた人形で、顔はかすかに笑っているようだった。

その時、井戸の中に冷たい風が吹き込んできた。水面がざわつき、人形が私の手の中で揺れた。突然、何かが耳元で囁くような音がした。水の中で何かが動いているような、かすかな音だった。

「誰…?」

私は恐る恐る声を出してみたが、返事はなかった。ただ、水面が揺れ、何かが近づいてくるような気配がした。心臓がドキドキと高鳴り、恐怖が体を包んだ。

その時、井戸の上から光が差し込み、誰かの声が聞こえた。

「おい、大丈夫か!」

村の人々が私を見つけてくれたのだ。私は力を振り絞って手を伸ばし、村人たちに引き上げられた。冷たい水から引き上げられ、地面に寝転がった時、涙が溢れて止まらなかった。

村人たちは私を家まで連れて行ってくれ、祖母は涙を流して私を抱きしめた。私はその時、人形のことを思い出し、ポケットを探ったが、もうどこにもなかった。

その後、井戸は塞がれ、誰も近づかなくなった。私はあの日の出来事を忘れようとしたが、井戸の中で感じた冷たい風と、囁き声は今でも耳に残っている。あの人形が何だったのか、なぜ井戸の中にいたのか、今でも答えは見つからない。ただ、あの日の冷たい水の感触は決して忘れることができない。

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