ある夏の夜、私は仕事で遅くなり、家に帰るのが深夜になってしまった。いつもならもっと早く帰るのだが、その日は重要な会議があり、疲れ切っていた。駅を出ると、人気のない道を一人歩き始めた。
夜風がひんやりとしていて、真夏なのに妙に肌寒く感じた。薄暗い街灯がいくつか点いているだけで、周囲はほとんど見えない。住宅街を通り抜け、少し大きな通りに出ると、遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。
歩き続けていると、背後から足音が聞こえた。振り返ると、誰もいない。おそらく気のせいだろうと思い直し、再び歩き出す。だが、足音は続いていた。一定の距離を保ちながら、私の後ろをついてくるような足音。
不安になり、私は足早に歩き始めた。すると、足音もそれに合わせて速くなった。背中に冷たい汗が流れる。私は振り返らずに歩き続けた。
家まであと数分のところで、急に足音が止んだ。私は恐る恐る振り返ったが、やはり誰もいない。ほっと息をついて家に向かって歩き出そうとしたその時、耳元で声がした。
「連れて行け」
その声は低く、囁くようなもので、男の声とも女の声ともつかない。私はその場で凍りついた。誰かが私の背後にいる。確かにそう感じた。
「連れて行け」
再びその声が耳元で響く。私は振り返ることができず、ただ前を向いたまま立ち尽くしていた。全身が緊張で固まり、何も考えられなかった。
その時、不意に強い風が吹き、街灯の明かりが揺れた。その影に紛れて、背後から冷たい手が肩に触れたような気がした。私は叫び声を上げ、全力で走り出した。
息を切らしながら家にたどり着き、ドアを開けて中に飛び込んだ。ドアを閉めると、全身の力が抜けてその場に座り込んだ。震えが止まらない。あの声は何だったのか。なぜ「連れて行け」などと言ったのか。
その夜は、眠れないまま朝を迎えた。外はすっかり明るくなっていて、昨夜の出来事が夢だったかのように感じられた。しかし、肩に触れた冷たい感触は忘れられない。あれが夢でないことを示す証拠のように。
次の日から、私は夜遅くまで仕事をしないように気をつけた。だが、あの時の声は今でも時折思い出す。耳元で囁くような低い声が、再び私の耳に響くのではないかと、ふとした瞬間に恐怖を感じる。
「連れて行け」と言ったあの声が、何を意味していたのかは今でもわからない。ただ、あの夜以来、私は一人で夜道を歩くのが怖くなってしまったのだ。
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